EP-Ⅰ『閃光のハサウェイ』で、あらゆる退路は断たれていることを丁寧に描き、ああ、もうコイツは、救いようのないところにまでいってしまっているのだと思わせられた男、ハサウェイ・ノア。あんなにも、負け戦に踏み込んでいく姿ばかりを見せてきたくせに、ハサウェイ・ノアは救いようのない男だ、と簡単に切り捨てたりなどしなかった、それがEP-Ⅱ『キルケーの魔女』だった。
ハサウェイの負ったトラウマは、人にどうこうできるレベルのものではなく、それゆえハサウェイに対して感じるものの大半は「無力感」であった。ハサウェイではなく、私たちが無力であるという意味で。
だからある意味では、私は同情することも共感することも反感を覚えることさえもサボり、ハサウェイを見放しながらEP-Ⅰを見ていたのだった。指をさして「キミさあ~」などと思っていた。
しかし、『キルケーの魔女』において、作品がそれを覆してきたのだ。
原作小説を読んでも捉えきることができず、見放すしかなかったハサウェイ・ノアという人物が、私の中で色づいて動き出したのだった。
ハサウェイがこの作戦を遂行しながらも過ごしている日々。仲間との日々、恋人との日々、家族との日々、マフティーとしての日々。
他者から思う存分に注がれる愛を、ただしく愛と認識できずに、見誤り、手の中にある幸せを見逃して掴み損ねたりする。そんな当たり前の日々を、ハサウェイも送っているのだ。トラウマと思想だけに生きているわけではない。正しくあろうとして、間違ってしまったりする、普通の人間なのだ。
挿入歌「ENDROLL」の流れ始める場面、考えもせずに衝動のまま走り出す姿に、私は愛すべき人間の姿を見た気がした。
まあ本当はそういう姿を、あの生と死のうちの生を司っているかのようなギギを、空襲の中で抱きしめ合ったその感覚を、恥だの肉欲だの言葉で小さいことのようにごまかさないで、衝動のままにその生を掴んでみせてほしかったところなのだが、トラウマというあまりにも大きな足かせがあるからつらい。でも、ちゃんと衝動で走り出せる人だったのだな。なお、彼のトラウマとは、逆シャアのそれではなくベルチルのそれなのだという。流れに任せるふりをしなければ、掴むことのできないギギという生なのである。
ところで、私にとって今回もっとも衝撃だったのが、ノア家である。
ネジェン…じゃなくて、サンオブブライトって知ってるだろ?小形Pから「我々はそのつもりで作っている」と当初発表されていた、EP-Ⅱの副題である。意味については説明されていない気がするが、日本語使用者としては片仮名にされるとサンにもブライトにもいくつかの意味を見出してしまう副題である。
だから、なんというか勝手に、良好な家庭をイメージしていたのだ。愛に満ちているからこその「ブライトの息子」なのだろうと。
いや、ハサウェイのことを想っているブライトとミライの姿を、愛に満ちていないなどとは言わないよ。
けれど、なんだあの夫婦の何人たりとも入り込ませる隙のないほどの速さでおこなわれる
完璧な業務遂行っぷりは。ああハサウェイが、ここですべてを癒すことはきっとないのだと思ってしまった。あの家庭における充分な愛が、ハサウェイにとってはこれっぽっちも充分ではなく、むしろ息苦しささえ生んでしまうのだと。なんて悲しいすれ違いを見せられているのだ。
きっとこの悲しさの分、仲間に愛されているハサウェイを見せられたのだと思った。あんたに伝わってるかどうかは知らんがハサウェイ、あんたの関係する人々、それはあんたの世界にとどまらず、こちらの世界の皆までもが、少なくともあんたを愛している。キルケーの魔女は、そういう時間だった。その愛があんたの救いになるとも、思っていないけどな…。アムロさんだけだよ、その愛こそに救いを見出すべきなのだと言ってくれそうなのは…。あーあ。
と、1回目の鑑賞に際する感想はこのあたりまで。
自己評価でもある「感情過多」な部分が存分に出ていたケネス、ここまでの伯爵に対しての義務を全うし己のためだけに旅立つギギ、成長を見せつつも未だに見通しの甘さがあるレーン…ハサウェイを含めて、EP-Ⅰから相変わらず、どいつもこいつも全員負け戦っぽい雰囲気しかない。でも、この物語における勝ち負けって、何のことなのだろうね。
清廉潔白どころか、泥くせえ人たち。何者でもない、愛すべき我々の投影なのかもしれないね。
最後に、ゲイス・H・ヒューゲスト。EP-Ⅱでもっとも変化した人のひとりだったと思っている。革靴を土で汚しながら仕事をしていた彼の首にかけられる、ハンドリー・ヨクサンからのネクタイは、まるで野犬にかけられた首輪のようだった。もし今後ハサウェイと再会することがあるなら、そこで彼がどのような仕事をするのかなんてもう確定したような瞬間だった。彼の声が、ハサウェイの前任の佐々木望さんだという事実に慄きながらEP-Ⅲ、震えて待て。