ブレーキ壊れた?出力バカになっちゃってるじゃん…かっ飛ばすじゃん…なにこれ…すごくいいじゃん……
ベルばら映画に撃ち抜かれた話 - lost my past
ありがとうございます…ありがとうございます……豊永さんのバカの出力でたすかるいのちがここに……あ…る
ベルばら映画に撃ち抜かれた話 - lost my past
ブレーキ壊れた?出力バカになっちゃってるじゃん…かっ飛ばすじゃん…なにこれ…すごくいいじゃん……
ベルばら映画に撃ち抜かれた話 - lost my past
ありがとうございます…ありがとうございます……豊永さんのバカの出力でたすかるいのちがここに……あ…る
ベルばら映画に撃ち抜かれた話 - lost my past
ALIVEのSOARA&Growthの合同楽曲、A.L.I.V.E.が発売されましたよ〜みなさん!(2月に)
10周年記念曲とのことなのですが、新規めの私でも「あの頃の僕らは」シリーズを致死量に(セルフで)浴び続けてきて、充分に、あまりにもご褒美すぎる1曲でした!
もしALIVEに触れたことないよって方がいるのなら。10年ぶんの時間を伴走していなくても、今から、ALIVEを始めよう?
_____ ____
歌の存在が次元を繋ぎとめて実在にさせる。
なんだこの第四の壁の壊し方は?いや、壁なんかないんだな彼らと私たちの間に。
見上げる空と、この歌たちが在れば。
心強くさせるためのものだと思っていた言葉たちが、彼らの“実在性”のためにも効くなんて、思ってもみなかった。
たとえば私たちは、ひとつの場所に集って彼らの姿を見ることなくとも、触れられるくらいすぐ隣にALIVEファンの同士が居なかったとしても、好きの時間の中でそれぞれの速度が違ってみんなが同じ方向を向いていなかったとしても、ずっと一緒じゃなかったとしても、ただ彼らの歌を口ずさめば、たちまち彼らの実在を証明してみせることができるのだ。
夢みたいに実体のない彼らだからこそ、私たちそれぞれが見つめる空に彼らを見て、歌うことで彼らと、みんなとつながることができる。
歌うという行為が、彼らが生きている証拠になるのか。
すごいね。彼らを「物語」にしなかったんだよ。
だって僕らは生きてる、同じ時空を。ああ、こんなに愛してくれるんだなあ。
歌を歌えば実在になるなんて、誰が気付いたの?ALIVEか…天才すぎるな。
僕に、音楽に、みんなに。送りたいのは、愛と感謝と、ここに在るという実感のことなのか。
決して重ならない次元に居るはずの私たちという“みんな”までも巻き込んで、私たちの心とともに生き続けるのだなあ!
夢でも幻でも空想でもない、この現実で、みんなと。私たちと!
決意の先で - lost my past
SOARAのIWill.のこと、合唱みたいだって言ったけれど、A.L.I.V.E.も声を重ねあっていて、すごくいいよね!ライブでは、きっとここで私たちを含めてみんなで歌いあうのだと思える。
その時のことを想像して、きっといつかはと、心が強くあれる。
頭の中でSOARAが、Growthが、飛び回ってる。素敵な一曲だなあ。
これでまた顔を上げて、歩き出せる。
いつも勇気をくれてありがとう!ALIVEだいすき!
B-PROJECT、10周年おめでとうございます!
Bプロと10年、長いようで短いようで、長かったし短かった。
このコンテンツでなにをやりたいのか、わかるようでわからなかったり、中身があるようで、ない…と思いきや、しっかりあったりした10年だった。
特にアニメは、意表をつきについたストーリー展開をした1期、その続きが判明するかと期待した矢先の「監督:森脇真琴」という(ドギャグアニメにする気満々やないかい!)からの\\ドギャグアニメでした!//の2期、そして突然思い出したように仏ネタを擦…いやほんの少し掠めたかと思ったら猛スピードで走り去った3期と、とにかくもういろいろとハチャメチャで、しかしながら予想だにしないという点で尋常ではない勢いがあった。メディアミックスって、「アニメをみればだいたいわかる」ように作られているものなのかと思っていたが、スピンオフみたいなものばかり詰め込んだアニメ化ってあるものなのだなと思う。
ただ、「うちのアイドルは顔がいいのだからこの顔をふんだんに使って絶対に笑顔になれるものをお届けするぞ」という意気込みは終始一貫していた、清々しいアニメ群だった。現実のあらゆるものに疲弊して消耗して、心がからっぽになっているときでも、ただ笑える。Bプロは、そういう意味でも私たちの光なのだなと、ふとした時にしみじみと感じたりする。愛すべきコンテンツである。
せっかくなのでこの10周年を機に、これまであまりBプロをご存じでなかった皆様に普及ポイントなど簡潔に伝えられたらと思いたったわけです。
どうアプローチしようか悩みに悩みましたが、今現在、一番Bプロに触れやすい媒体である「楽曲」の中から、全員歌唱曲を取り上げて振り返ってみようと思います。
18曲あるようです、漏れがなければ!
●はじめに・ちょこっと解説●
・「B-PROJECT」
大手レコード会社・ガンダーラミュージックが手掛ける男性アイドルプロジェクト。バンビと呼ばれる養成所時代を経てそれぞれデビューした、キタコレ、THRIVE、MooNs、KiLLERKiNGの4組により結成された、総勢14名のスペシャルユニット。
なお、それぞれ芸能事務所は、キタコレ・MooNsがダイコク・プロダクション、THRIVE・KiLLERKiNGがブレイブ・エンタテインメントに所属している。2事務所の社長は
兄弟で、それぞれのカラーが出た事務所となっている。
現実においては、総合プロデューサーを西川貴教氏、企画原作を志倉千代丸氏が手掛けている。
以下敬称略
・「キタコレ」
北門倫毘沙(CV小野大輔)、是国竜持(CV岸尾だいすけ)の2名によるユニット。王子様系。
・「THRIVE」
金城剛士(CV豊永利行)、阿修悠太(CV花江夏樹)、愛染健十(CV加藤和樹)の3名によるユニット。アーティスト傾向強め系。
・「MooNs」
増長和南(CV上村祐翔)、音済百太郎(CV柿原徹也)、王茶利暉(CV森久保祥太郎)、野目龍広(CV大河元気)、釈村帝人(CV増田俊樹)の5名によるユニット。バー○ントカレーCM系。
・「KiLLERKiNG」
寺光唯月(CV西山宏太朗)、寺光遙日(CV八代拓)、不動明謙(CV千葉翔也)、殿弥勒(CV江口拓也)の4名によるユニット。フレッシュ系。前述の3組から遅れてB-PROJECTに加入した。
●●
とりあえずこれくらいの導入で、発売日順に、全員歌唱曲を追ってみたいと思います。
なお、作詞や作曲を西川貴教氏・志倉千代丸氏が手掛けたもののみ、その旨、敬称略にて記載しましたのでご参考までに。
Go~
・永久パラダイス(2016)
詞曲志倉。10Ver.が先行し、MooNsVer.とTHRIVEVer.とキタコレVer.、そしてキラキン参加後の14Vocalver.とキラキンVer.の6種類がある。文を細切れにするようにみんなでソロパートをリレーしながら紡いでいくタイプの、アイドルの初期楽曲らしい1曲。しかもユニットごとにソロの歌割りがくるので、Bプロの導入としてもわかりやすく、サビのユニゾンもチーム分けがされていて聞きやすい。歌詞の言葉も振り付けもわかりやすく、客も参加できるフレーズもあり、ライブ映えし、誰でもノれる最初にして至高の1曲。剛士の「長い夜の」の声をはじめ、実に初期らしい「今後聞けなくなる初々しい声」を聞くことができる。
・鼓動アンビシャス(2016)
詞西川曲志倉。アニメ1期OP。わかりやすいくらい定番で王道な1曲。1期はキラキン加入前を描いているため、14Vocalver.はなく、10Vocalver.のみ。しかしサビの終わりに「次のステージへ」というフレーズがあることで、後発のキラキンも置いていかないでくれている印象。
・無敵*デンジャラス(2016)
https://youtu.be/uQV29zziJc8?si=Qqp7a05Dn1Vx421v
詞西川曲志倉。ソシャゲ主題歌。以降、キラキン加入済み=14Vocalとなる。ユニットごとに順番にソロパートがやってくるところや、サビのユニットごとのユニゾンなど、改めて「14人のBプロ」の自己紹介的な側面が感じとれる。音が転がっていくみたいな華やかさがあり、衣装のモフモフしたゴージャスさと相まって豪華絢爛なイメージ。
・S級パラダイス(2017)
https://youtu.be/byH2bwRJogc?si=j9VYq9414_Odu7ES
詞志倉。ファーストアルバム表題曲。ソロパートで言葉をリレーするように展開し、めくるめく疾走感が気持ちよい1曲。一方で、サビの少人数でのパートでは担当する言葉が単語から文にまでのびていたり、サクサクいったと思ったらしっかり伸ばす音があったりして、Bプロ内で歌唱における武器が増えてきた印象を受ける。
・快感*エブリディ(2018)
詞曲志倉。ソシャゲ主題歌。華やかな1曲。PVではサビで天空に行く。そういうところも含めて、Bプロというアイドルコンテンツでなにを見せたいのかがわかる1曲。1番がブレイブ(THRIVE・KiLLER KiNG)メイン、2番がダイコク(キタコレ・MooNs)メインで展開。最後のサビはユニットや事務所の枠を超えてきていて、それでいて一体感がある。
・After all this time?(2018)
https://youtu.be/uoseUr2Rq-c?si=DxGqjuQS9FcTRR__
詞曲志倉。はじめての“ED観”のある全体曲。穏やかな曲調であることや、ユニゾンパートではなくソロパートでも担う言葉が文にまで広がってきていること、サビにもソロパートが入ってきたことなどにより、「聞かせる力」があることを印象付けられる。基本はユニットごとに歌割りの順番がくるが、サビの人選やチーム編成に意外性があり、徐々に「Bプロの色」というものがより複雑に、かつ色鮮やかになってきていることを感じられる。メロ声メンバーたちで〆るところも余韻がマシマシでいいよね。
・絶頂*エモーション(2019)
詞曲志倉。アニメ2期OP。ドラマティックで派手。アニメOP曲はいつもちょっとダサい。振り付けもともすればコミカルな動きであり、ダサい。だがこのダサさがいい!ポピュラーソングとしての堂々たる雰囲気を作り出している。これまでの鼓アン、絶エモに通じて感じる「ダサさ」というものは、アニメとしてBプロが広く開かれている証拠なのだと思う。
・光と影の時結ぶ(2019)
https://youtu.be/y0Fqb_Zh0Wg?si=UHSAH133d7jHVkc6
詞曲志倉。アニメ2期ED。絶エモOPEDはかなり明謙のエピソードに引っ張られながら聞いてしまう曲。光と影の明謙のソロパート「その想いに泣かされそうで」にすべてが集約されていると感じるが、もちろんこの歌も言葉も彼ひとりだけのものではなく、どちらの曲も全員ユニゾンのサビでBプロの結束を強く感じることができる。各ユニットVer.もあり、明謙エピソード回のEDがキラキンVer.ではなくTHRIVE Ver.だったことへの明謙役千葉翔也氏のSNSでの反応はクイーン(KiLLER KiNGファンの名称)の中であまりにも有名。
・あえて言葉にするなら(2019)
詩曲志倉。アニメ2期挿入歌。1番だけで全員のソロパートがある、通称“アニメ内で絶対にみんなのソロパート流すマン”。あまり聞けるチャンスのない曲ですが、どうにかして聞いてほしい。キラキン加入の流れを受けた最終的な着地点として美しいのでぜひ。恋だって自由らしいです。え?
・Who is the King?(2020)
https://youtu.be/unYmuGX0K2g?si=ly32yDaGylNb7fz7
やんちゃ系ドラマCD挿入歌。これまでの全体曲は、Bプロとしての内面的な言葉ととれるものが多かったが、「架空映画主題歌」という設定で全く別の顔を見せた1曲。この頃になってくると、ソロの歌割りが事務所とかユニットとかパッと思いつくカテゴライズによるものでもなく、またキャラクターと言葉の意味の掛け合わせでもなくて、だけどすごく曲に合っていて、より複雑で、プロらしさ・職人芸のような面を感じることができる。このあたりからの歌割りあまりにもいいので、Bプロの歌割りはどうやって決まっているのか本当に教えてほしい。サビでは基本全員ユニゾンで、厚みの強さを感じることができる。
・Supernova Explosion(2020)
https://youtu.be/DqhvPZVpKNY?si=cVIH7zS2GnrsOrRe
SF系ドラマCD挿入歌。2人ペアで進行する組み合わせと、ソロパートの歌割りが新鮮な1曲。2020年の2曲は、ドラマCDのコンセプトもあり、それぞれ毛色が違っていて新しい魅力を感じることができる。西川氏・志倉氏どちらの楽曲ではないのもこの年の特徴で、2020年はBプロとして新しい挑戦をしていたことが窺える。以降続くドラマCD挿入歌のシリーズは、全体曲における各キャラクターの内面の発露だけではなく、架空映画などのコンセプトに対し、各々がどのような解釈をしてどのように臨んでいるのかを窺うことができる曲になっていると思う。実在するアイドルの楽曲でも、ファンに向けたプライベートな面を持つ曲、パブリックイメージに忠実な曲、映画やドラマの主題歌など他の世界観に浸れる曲など、楽曲それぞれに立ち位置があったりすると思うが、この架空映画系シリーズによって曲のバリエーションが増えたことは、あらためてBプロの実在を想像させる重要な要素になったと感じている。
・流星*ファンタジア(2021)
コンシューマーゲームOP。アスタリスク曲としてつながりを捉えるならば、絶エモからの流ファンのソロパートの始まりがキラキン、という非常にアツい展開の1曲。曲中のかなりのパートをソロパートで成立させるようになってきていて、余計に14人になったときの高揚感を強くさせてくれる。展開や音が志倉曲っぽいのに志倉曲じゃない!なのに驚くほど“The・B”が詰まっている。いろいろな人が関わってくれて作り上げるBプロに統一感を感じられるということは、私たちにとって“澄空つばさ”を感じるということに他ならない。
・Blue period(2021)
https://youtu.be/6aj5lgoW7R4?si=W89aP29olruoUikZ
コンシューマーゲームED。覚悟の剛士始まり剛士〆。生バンド映えする1曲。サビは声質で分けたのだろうか?何度も言うようだがBプロの歌割りは曲ごとに違っていて、本当にどのようにして決まっているのかが気になる。ソロもユニゾンも、パートのバトンの受け渡し具合がブルー√後の心に鮮やかに効くので、みなさん、流星ファンタジアをぜひプレイしてみてください!
・Seize your light(2021)
https://youtu.be/IcxyxkXPf5I?si=-owwsM3RikyEuHb8
コンシューマーゲームED。ソロの歌割りがかなり長く、歌詞を聞かせにきている印象。しっとり聞き入ってしまう。入りの和南、サビの遙日・明謙というチョイスが象徴するように、みんなのまっすぐな声が心にスッと入ってくるような1曲。
・Darkness Night(2022)
https://youtu.be/vgoHvmizlPw?si=3aO8Ovf5BAuCMzMr
魔法系ドラマCD挿入歌。魔法がテーマと言っておきながら、この妖しさをお出ししてくる驚き。こちらもSupernova Explosionのように右と左の2人進行で、何度やっても組み合わせが新鮮。複数人でのユニゾンサビ、からの、2番サビではソロ
パートに。しかもこの妖しさの曲で元気印の暉と明謙という2人で切り込んでくる強さ。唯月のしっとりボイスでとどめを刺される。意外な歌割りで殴ってくる1曲。
・未来革命(2023)
https://youtu.be/kVqXOu9NJgY?si=GhLzJEXfsIvjTEBQ
幕末系ドラマCD挿入歌。読みは、みらいレボリューション、だよ!アイドル曲に和ロック入れたい系のイメージある志倉氏(個人の印象です)。ここでついにBにも和ロック投入です。和ロック曲はライブのとき一瞬で雰囲気変わるしセトリにあるとすごくいいよね、ライブください。長いこと剛士ががなりを得意としてきたけれど、龍広や暉のがなりも聞ける、新たな強さを持った1曲。
・熱烈*ラブコール(2023)
詞曲志倉。アニメ3期OP。久しぶりのサビ分厚分厚分厚ユニゾン!PPPHできて気持ちがいい、The・王道、The・OPな1曲。相変わらずアニメOPはどこかダサい。だからこそアニメの主題歌たりえるのだ。
・Cinematic(2023)
https://youtu.be/xiO34iZBtwY?si=406l38yMZfw7X711
OPが王道をみせるならば、EDは新しい面みせちゃおうかな、ってか!?オシャレでスカしていてだがそれがいい。文を細切れにしてソロパートとするアイドル楽曲あるあるを逆手に取り、浮遊感とめくるめく時間を思わせる、ED観ばっちりの曲。龍広〆というメロさよ。
・2024年のドラマCDはシャッフルユニット楽曲のみで、全員歌唱曲はなし。
・2025年は各ユニットシングルのみで、全員歌唱曲はなし。
以上、10年間の全員歌唱曲18曲を振り返ってみよう!でした。
まあ~何が言いたいのかわからなくなってしまいましたね、主観が入り過ぎないように書きたかったのだが、難しいのね~!
キャラクターのことを言い始めたら中の人のことまで言いそうだし。こうやって思い出の詰まった10年なのだなとあらためて実感いたしましたよ。
アニメ3期からはレーベルメイトとしてUltras(A輔(CV畠中祐)、B太(CV伊東健人)によるユアチューブ出身ユニット)という後輩もでき、動画配信erとしてYouTubeに歌みたなどが上がっているのでこちらもぜひ。
振り返る中で、そういえば、KiLLERKiNG 曲が持つD島K平みってなんなのだろうって、ずっと思っていたことを思い出した。一時期、リアルから二次元からありとあらゆるアイドルもの全体の向きとしてD島楽曲に凝っているなって感じるときがあって、まあその流れかなあなどと捉えていたわけだけど、違ったな。これ、“Ki”を持つ“アイドル”の“魂”がそうさせるのだな…。要するにわざとやってるんだなこれ。
こういうことを感じられるのは、やはり総合Pが居てくれるおかげだろうなと思う。
すぐ喧嘩するイメージあるけど、西川さんと志倉さん。これは妄想なのですが、志倉さんのクリエイターとしての側面を考えたとき、彼がBとして踏み込みたかったのは完全自律型二次元アイドルみたいなものだったのではないかと思ったりする。単純にアマデウス紅莉栖からの発想だけど。けれど、やっぱり最後に立ちはだかるのは「声」の問題だったんじゃないかな。役者さんが居なければここまで作り上げることはできなかったのに、役者さんが要らなくなる商品には、できないんだよね。このあたりに関して、喧嘩してそうだな~と妄想している。
いまだにチャッピーに「おまえの声優だれなんだよ!」と絡んでいるのを見るに、野望としてまだまだ志倉さんの頭にあるんじゃないかなと思う。今後のBプロでそれを叶えるかどうかはしらないけど、できれば野望はどんどん叶えていってほしいな~。志倉さんの発想ってやっぱり特別だから。現実が追い抜いちゃう前に、どんどん頼む!
何度みてもリアルモーションいいわあ
EP-Ⅰ『閃光のハサウェイ』で、あらゆる退路は断たれていることを丁寧に描き、ああ、もうコイツは、救いようのないところにまでいってしまっているのだと思わせられた男、ハサウェイ・ノア。あんなにも、負け戦に踏み込んでいく姿ばかりを見せてきたくせに、ハサウェイ・ノアは救いようのない男だ、と簡単に切り捨てたりなどしなかった、それがEP-Ⅱ『キルケーの魔女』だった。
ハサウェイの負ったトラウマは、人にどうこうできるレベルのものではなく、それゆえハサウェイに対して感じるものの大半は「無力感」であった。ハサウェイではなく、私たちが無力であるという意味で。
だからある意味では、私は同情することも共感することも反感を覚えることさえもサボり、ハサウェイを見放しながらEP-Ⅰを見ていたのだった。指をさして「キミさあ~」などと思っていた。
しかし、『キルケーの魔女』において、作品がそれを覆してきたのだ。
原作小説を読んでも捉えきることができず、見放すしかなかったハサウェイ・ノアという人物が、私の中で色づいて動き出したのだった。
ハサウェイがこの作戦を遂行しながらも過ごしている日々。仲間との日々、恋人との日々、家族との日々、マフティーとしての日々。
他者から思う存分に注がれる愛を、ただしく愛と認識できずに、見誤り、手の中にある幸せを見逃して掴み損ねたりする。そんな当たり前の日々を、ハサウェイも送っているのだ。トラウマと思想だけに生きているわけではない。正しくあろうとして、間違ってしまったりする、普通の人間なのだ。
挿入歌「ENDROLL」の流れ始める場面、考えもせずに衝動のまま走り出す姿に、私は愛すべき人間の姿を見た気がした。
まあ本当はそういう姿を、あの生と死のうちの生を司っているかのようなギギを、空襲の中で抱きしめ合ったその感覚を、恥だの肉欲だの言葉で小さいことのようにごまかさないで、衝動のままにその生を掴んでみせてほしかったところなのだが、トラウマというあまりにも大きな足かせがあるからつらい。でも、ちゃんと衝動で走り出せる人だったのだな。なお、彼のトラウマとは、逆シャアのそれではなくベルチルのそれなのだという。流れに任せるふりをしなければ、掴むことのできないギギという生なのである。
ところで、私にとって今回もっとも衝撃だったのが、ノア家である。
ネジェン…じゃなくて、サンオブブライトって知ってるだろ?小形Pから「我々はそのつもりで作っている」と当初発表されていた、EP-Ⅱの副題である。意味については説明されていない気がするが、日本語使用者としては片仮名にされるとサンにもブライトにもいくつかの意味を見出してしまう副題である。
だから、なんというか勝手に、良好な家庭をイメージしていたのだ。愛に満ちているからこその「ブライトの息子」なのだろうと。
いや、ハサウェイのことを想っているブライトとミライの姿を、愛に満ちていないなどとは言わないよ。
けれど、なんだあの夫婦の何人たりとも入り込ませる隙のないほどの速さでおこなわれる
完璧な業務遂行っぷりは。ああハサウェイが、ここですべてを癒すことはきっとないのだと思ってしまった。あの家庭における充分な愛が、ハサウェイにとってはこれっぽっちも充分ではなく、むしろ息苦しささえ生んでしまうのだと。なんて悲しいすれ違いを見せられているのだ。
きっとこの悲しさの分、仲間に愛されているハサウェイを見せられたのだと思った。あんたに伝わってるかどうかは知らんがハサウェイ、あんたの関係する人々、それはあんたの世界にとどまらず、こちらの世界の皆までもが、少なくともあんたを愛している。キルケーの魔女は、そういう時間だった。その愛があんたの救いになるとも、思っていないけどな…。アムロさんだけだよ、その愛こそに救いを見出すべきなのだと言ってくれそうなのは…。あーあ。
と、1回目の鑑賞に際する感想はこのあたりまで。
自己評価でもある「感情過多」な部分が存分に出ていたケネス、ここまでの伯爵に対しての義務を全うし己のためだけに旅立つギギ、成長を見せつつも未だに見通しの甘さがあるレーン…ハサウェイを含めて、EP-Ⅰから相変わらず、どいつもこいつも全員負け戦っぽい雰囲気しかない。でも、この物語における勝ち負けって、何のことなのだろうね。
清廉潔白どころか、泥くせえ人たち。何者でもない、愛すべき我々の投影なのかもしれないね。
最後に、ゲイス・H・ヒューゲスト。EP-Ⅱでもっとも変化した人のひとりだったと思っている。革靴を土で汚しながら仕事をしていた彼の首にかけられる、ハンドリー・ヨクサンからのネクタイは、まるで野犬にかけられた首輪のようだった。もし今後ハサウェイと再会することがあるなら、そこで彼がどのような仕事をするのかなんてもう確定したような瞬間だった。彼の声が、ハサウェイの前任の佐々木望さんだという事実に慄きながらEP-Ⅲ、震えて待て。
いや、普通の映画だった。
言葉が平易でわかりやすく作られていると思った。伝えたいことはシンプルなのだなと感じた。台詞回しや展開はあえて古典的にしたのだろう、映像の先進性との対比やバランスだったのかなと思う。あれをセルの表現でやったら、さらにつまらないものになっていただろう。あのような映像をアニメとして届けられる時代になったからこそ、細田さんも古典的な題材にチャレンジしたのだろうと思った。歌は、歌詞もメロディもわかりやすく、意外とまだ頭に残っている。
しかし相変わらず、暴力をふるう大男が女の眼力だけでひるむ様子は、女性からすると現実味がなく、あれらの場面からメッセージ性を感じることは難しいと思った。
また、このまま舞台やった方がおもしろいだろうと思わせてきた点は、アニメ映画としてマイナスな点だと思った。専業声優を起用しないのならば、このキャストでの実写の方がおもしろいだろうなどと想起させないアニメーションを作ってもらわないと困る。正直あの顔ぶれなら、あのアニメよりいい芝居をするだろう。映像作品として、アニメというコンテンツが負けたのである。
とにかく映像がたいして芝居をしないように感じて、退屈だった。
細田さんのアニメの、テンポのよい映像の切り替えでより多くの情景を伝えてくれるところが好きだったが、ドローンの撮影のように連続した表現を多用したことによって、あの心地よさは感じることができなくなってしまった。テンポが失われて、ダラダラと見せられていると感じてしまうところが多かった。
あのような緩慢なCGとモーションキャプチャーを日本のアニメとして見せられるのなら、視聴者はド派手なハリウッド映画を見る方を選ぶのではないかと思う。
表情の変化など、非常によく動いているのだろうが、よく動いてますね~というだけで、その芝居によって視聴者が感動したり、共感を覚えたりできる映像なのだろうか、と疑問に思った。
CGもモーションキャプチャーも、今やアニメとして取り入れない手はないのだろうと想像する。もう戻れないし、このまま突き進むのだろうと思う。ならばせめて、だったら生身の芝居を見た方がいいわ、と思わせる映像にはしないでほしいと思った。
さて、例の渋谷でのダンスシーンだが、個人的には流れとして的外れなシーンではないと思った。けれど、私には、モーションキャプチャーがどれだけ手を叩こうと、そこから弾け出る音など一つも感じられず、躍動感も、生命ある肉体の輝きなども感じることは難しかった。あの映画の中で活き活きと動いていたのは、スカーレットと聖がそれぞれにもともと居た世界のシーン、それはセルの、本来私たちが日本のアニメと呼んできたような、私たちが細田さんの映像だと感じられるようなシーンだけだったと思う。
CGが、モーションキャプチャーが悪なのではない。スカーレットが後ろを振り返る姿などは、前半と後半で響きあっていて非常に印象的だった。あのように効果的に技術を使うことができてなぜ、あんなに退屈な映像になってしまったのだろう。
ガラパゴス的に進化してきた日本のアニメの記号化した表現、日本の漫画的な表現が少ないのは、世界に照準をあわせたということなのだろうと理解した。ビジネスとしては正しいのだろう。できるだけ多くの人に普遍性をもって届けられることの方が大事だろう。物語のベースを古典から持ってきたのもきっとそういった点もあったのだろう。日本らしい独特の感性での話は、あの規模の監督にはもう求められていなかったのだろう。
ただ、主人公のみならず、民衆をも描こうとした作品で、評判で実際の民衆にそっぽを向かれてしまったのは、大変な痛手…、いややはり失敗、なのだろうと思う。
そういう意味で、私は非常に残念だった。
映画としては評判でこき下ろされているほどには悪くなく、いたって普通の映画なので、映画館に行って鑑賞するに耐えうる作品だったと思う。せっかくなので観に行ってみてほしい。舞台化前提なのでは?と思うような感じだったので、原作履修的なカジュアルさでいかがでしょうか。完璧に展開が舞台。戯曲がベースだからそう感じただけかもしれませんね。
追記
あれはプレスコだったそうですね。もしかして細田さんはいつもそうだったのかな?考えたことがありませんでした。気にならなかったともいう。
プレスコで「役者がそのまま芝居してみせた方がいい=実写のほうがよい」と思わせたのなら、やはりそれはアニメの敗北なのではないでしょうか。役者さんのお芝居の方が上回ってしまったわけですよね。
細田さんがあまりにンハンハ言わせるものだから、みな嫌悪感が先に出てしまって、お芝居として評価されていない気がします。芦田さん、とてもよかったと思います。彼女の芝居に映像がついてきていないだけで。
役者さんのお芝居のテンポよりも、細田さん、あなたの「アニメ」のテンポで作品が見たいものです。
劇場アニメ ベルサイユのばら、ついについに円盤化おめでとうございます!
1月の公開から、そして7月のBluRayDVD発売決定の報からこんなに経ってしまったが、円盤化記念にどうにかこの永遠にまとまらない感想を終わりまで書くぞという意気で取り掛かってみた。
が、役者語りだけでじゅうぶん長文になってしまった。もはや読まなくてもいいですの域なのですが、書いたから載せるぞおお…ベルばら…万歳…!
*
私はそのとき、ユーネクストのトライアルで、家で映画見放題を満喫していた。付与されたポイントの使い方もわからぬままに。
そしてようやく、あと2週間で失効してしまうことに気付き、焦っていた。
とりあえず劇場公開中のガンダムジークアクスに飛びついた。劇場で見るつもりなかったけど…などとほざいていたものだが、劇場で鑑賞するとやはり劇場しか!という感想が出るから現金なものだ。
これで任務完了…と思いきや、新たな問題に気付く。なんとあともう1回分ポイントが残っていたのだ。
映画館内を見渡す。鏡に貼られたキャンペーンが目に入る。キャラクターとツーショットが撮れるらしい。美女だ。
ベルサイユのばらだ。
原作も未読、昭和TVシリーズも未視聴、宝塚版も観ていない。
キャラクターの名前もわからない。マリーアントワネット、教科書で見たきりだ。
フランス革命も記憶のはるかかなた。
この時代の文化さえ知らない。
鏡の隣のポスターに書いてある4人のメインキャストの名前を見る。

客席に座り、広告が終わってロゴが出てきたところでようやく、あコレMAPPAなんやね、と知る。
とにかく歌うらしいということであったので、登場人物が増える度に「このひとは歌うか?歌え…!歌え…!」と思っていたのだが(特に田中真弓さん、歌聞きたかった)、さすがに全編通して歌いまくりというわけではないらしい。
しかしなんとも華々しい!歌からセリフからBGMから映像から何から何まで徹底して同じことを伝えまくってくる。MAPPAらしい過剰さだ。「わかりやすい」と「わかりやすすぎる」の間をうまく縫ってくるセンス。
このセンスは、メイン4人のキャスティングにも大いに影響している印象だ。絶対に「わからない」ようなお芝居はしない人たち。観客に伝わらないような、ある種エゴを感じる視野の狭い表現はここではしない。これは、この作品全体を通して意識されていることかもしれない。とにかく本作は「伝える」ということにかなり重きを置かれて作られていると感じる。
だから、とりあえず私の好みとは言い難いこの過剰さは気にならないなと思った。些事だな。そもそも好みなんてそれぞれなのだから、私の好みを蔑ろにしてこなければ、好みじゃないとかいうことは大した問題ではないのだ。視聴者としては、作品が通そうとしている筋が、自分の心根と合えばそれでいい。
そうして、そんな中でやってきたResonance of Love……
フェルゼンの歌声を聞いた瞬間に…脳天が雷に撃たれたかとおもった。
正直、この超ド級ラブラブミュージックビデオかのような映像には「なんや…!いやコレなんや…!なんでやねーーーん!」と思っちゃう感性をしている私なのであるが、
もう…、そんなことはどうでもいいのである…
どうでもいいくらい「愛」…
五体投地…
もうなんでもいい…
もう一回聞かせろください…

さてここでマリーアントワネット役平野綾さんと、フェルゼン役加藤和樹さんの話を少ししたい。
平野さんは本作で、アントワネットが少女から成熟した女性になっていくまで、明確な違いをつけて演じておられる。特に後半、王妃として、また母としてのアントワネットの声は、映像として描かれなかった時間がいかに深いものであったかを一瞬で痛感させるものだった。見事だった。このお芝居の力は、原作と比較したときの劇場版のアントワネットのエピソードの少なさを補填して余りある強さを持っていたと思う。アントワネット様は、このようなお人になられたのだとわかる。エピソードが足りない?些事である。充分だった。そして、アントワネットの声のギャップの良さは、オスカル役沢城みゆきさんのお芝居があってこそ、より鮮明に感じられるのだと思うのだ。出ずっぱりのオスカルは、少女のころからあまり変わらないように聞こえる。切り取って聞くと成熟しているさまは分かるのだが、それはとてもなだらかで、私たちに違和感やフックを与えるようなものではない。こういった対比からも、ふたりは、道は違えども影響を与え合っている関係性だと感じられるのだ。こういう采配、やはりMAPPAのセンスが効いているのだと思う。
私事だが、私は平野さんと同年代である。(というか4人とである。)正直、ここから先は作品への感動ではなく、中の人…役者さんへの共感であり、作品の感想と一緒くたにするのは違うとは思いつつも。
本作では特に平野さんにかなり共感し、かなりかなり感動をしてしまった。と言っても、平野さんのお仕事のほんの少しをかいつまんで見ただけのにわか中のにわかなのだけれど。最後に彼女のお芝居を観劇したのもコロナ前なので、もう本当にずいぶん前だ。
これまでずっと平野綾さんのお芝居というと、全身全霊、最初から最後まで全力であるこ
とこそが全て、という印象が勝手にあった。必死すぎる、そう映ることもあるくらいだった。
華奢な体にもかかわらず、どこまでも届きそうな通る声で、充分上手な歌で、それでもまだ届かない、全然足りない、まだ私はやれる、もっとやらなきゃと―
でも、今になったからわかる。そんなこと、自分だってそうだったのだ。
アラサーなんて言われるものは、大人になってからこれまで自分の積み重ねてきたことへの自信と、それでも全く敵わない先輩の背中への憧れと、足りない自分への苛立ちと、まだ遠く後ろにいた気でいた後輩が真後ろに迫っているような焦りとで、必死に自分を正当化して痛々しいほどもがいている時間だったのだ。
観劇なんて自分はオフで、リラックスしているから、お仕事真っ最中の人さまのことを必死だなんて言えてしまうのだけれど、実際自分が仕事をしている時間なんて、必死以外の何ものでもなかったのだ。
だから、力み過ぎない余裕を得たような平野さんのお芝居に、もう本当に勝手に、私たち頑張ってきたんだよね~!泣泣泣、と、もう本当に自分勝手な共感をし、物語への感動と相まって、ずっと心打たれているのです。
それから、加藤和樹さん。
私はB-PROJECTのファンなので、とても馴染みのある加藤さん。…むしろ、和樹さんの声優としての経歴に、アニメBプロという「イケメンをふんだんに使用したドのつくギャグアニメ(特に2期(特に2期)(おもろいのでオススメ))」があることに、謎にも罪悪感さえ覚えるくらいだったが…
近年の和樹さんのアニメのお仕事は、なんだか、ついにこの時代来たなとさえ思えるよね。
ご自身を役者として、いや表現者として定義して、ひとつの場所だけに留まることなく、あらゆるお仕事にチャレンジしてきてくれたからこその結実をみせていて、やっぱりかっこいい人だなと強く感じる。
しかも、たとえば、和樹さんおひとりが、ミュージカルにアニメに歌手にとご活躍されているだけでは、今のような状態にはならないのだよね。
加藤さん、平野さんをはじめ、本当にいろいろな場所で輝いてきた人たちが、アニメも「表現の場」として選択してくれて、しかもお芝居だけでなく、それまでの場所で戦ってきた武器を活かして最大の表現をしてくれる。
これは、スタッフ陣にも言える話だと思っている。
「ベルサイユのばら」のために集まった人たちそれぞれが、これまでやってきたことと、これからやってみせるぞと思っていること、そのすべてを出して見せてきたようなパワーがある。映画ベルサイユのばらは、そういう個人が持っている力を集めに集めて成したひとつのピーク、到達地点だと感じている。
それから、ここで音楽を担当された澤野弘之さんの話をしたい。
MAPPAのアニメーションのことは先に述べたが、やはりMAPPAの優れていたところはセンス、バランス感覚のような部分だろうと思う。
澤野さんの音楽も、まさにこの点が素晴らしくよかった。
ベルばら映画のソンコレ・サントラの発売日、ベルばらで2枚出ているのも十分すごいが、澤野弘之さんのCDが他にもいくつか出た。
この人今日何枚CD出すんや?と思い、Xで検索していた時のことである。
澤野さんファンの「ベルばら、澤野楽曲なのに曲名が読める」という旨の投稿を見かけたのだ。
ベルばら楽曲の良さのひとつは、要するに”そこ”である。
読みやすさ、聞こえやすさ、わかりやすさ。音と声、なにより言葉をいかに視聴者に伝えるかという事に腐心されているのではないかと感じている。
JPOP的、JROCK的であるのもひとつのポイントだろうと思う。
もし楽曲がミュージカル舞台らしかったり、ミュージカル調アニメーションの大家のようであったりしたら、それは永遠に二番手以降でしかないという事なのだと思う。
そのため、澤野さんらしくあり、かつ聞きやすくわかりやすい楽曲であることが、なによりも重要なポイントだったのではないかと思う。
ミュージカル俳優を使って、舞台上の表現とはまた正反対の性質のある録音という利点を最大に活かしたようなResonance of Loveの抑揚だったり、「オスカルの声で歌えなくてオクターブ違いで重ねて“お化粧”してもらった」と沢城みゆきさんがおっしゃったような澤野さんらしい多重なボーカルだったりと、いろいろな手も垣間見ることができる。
もうできるかぎり音響のいい環境で聞いてほしい。あっちからもこっちからも歌声聞こえてくるのはあまりにも最高だった。劇場ならではの体験だ。
最後に、沢城みゆきさんと豊永利行さんだ。
ここの相性はもはや異常だね。よすぎる。
沢城みゆきさんってもうみんなキャスティングの段階で名前を聞いただけで「あっ、なら大丈夫だ」と思わせるほどの実績がある人だと思っていた。
しかしどうもこれは、大変な失礼だったようだ。
今回ベルばら映画にハマったことにより、キャストインタビューをたくさん読ませていただいたのだが。
あ…このひと「あなたなら大丈夫だね」っていう大人の信頼とかいう傲慢もとい子供目線で言う手を離されたような経験を何度も味わってきたひとだきっと……!!?
このキャリアでこの世間からの評判でなおめっちゃもがいて苦しんでいる…!!?!?え!!?沢城みゆき!!?!
器用なひとではないんだ、でも、自分は不器用だって自覚があるのに、ひとからはあんまり不器用だとは認められてきてないひとか…!?
なんつう人間味!!!!
オスカル様じゃん!!!!
オスカル様だよ!!あんた正真正銘のオスカル様役がぴったりのひとだよ!!!!
ええ~想像でこんな気持ちになることある!?あるか!!今がそのときだな!!?
あ…すごい…
オスカル様って出ずっぱりだし、主人公で感情移入をしていると、作中を通した声の変化って気付きにくくなるものですが、またそれがいいのですよね。変化がさざ波のようでわからなければわからないほど、アントワネット様の変化がより際立つ。平野さんのあれは沢城さんへの信頼のひとつとも言えるのかもしれない。
ご本人は、オスカル様の声で歌えなくて…とかおっしゃっていたけれど、どの曲を指してそうおっしゃったかはわからないけれど、正直そこがいいのではないか!と言わざるを得ない。オスカル様の多重なボーカルは、オスカル様が押し込めてきた少女らしい一面のように響くこと響くこと。これは本当に澤野さんのやり方とオスカル様と沢城さんのマッチングがもうあまりにも良かった!
そして豊永さん。
私この方は本当に“違和感”のある役者だなと思うのですよ。
話の流れの中で今その瞬間ひとがどういう気持ちか、という発想のうち、多くの人が選択する感情を、芝居にあまり採用しないんだよね、という印象。
ああ、その感情をピックアップするのか、といつも思う。だからこそ、じゃあなんでそのキャラはその感情が第一なの?という問いの生まれるお芝居だと思う。受け手も考えるお芝居。あの人のこちらへの感情の揺さぶり方のひとつだなあと。
個人的には、劇場版のアンドレだけではアンドレという人を捉えきれなかった。これは原作を読んで解決、彼はいくつかの決意を抱くシーンをもっとも調整されたキャラクターのひとりだからだろう。
「影」は人から…特にジャルジェ将軍から言われないといけなかったし、いわゆるブラビリや草むしりなどのすべてがあってようやくアンドレをいう人を正しく認識できた気がしている。
だから、劇場版アンドレは結構難しいひとだったと思う。だけどそれが、なんと、豊永アンドレは、わかりやすいのである。わからんやつがわかりやすいのだ。
というかシンプルなのだね。オスカルが等身大に悩み、もがき、彼女の持てる人間らしさがあふれればあふれるほど、シンプルになっていくアンドレ。
ただひたすらに愛。もうそれが徹底されているのだ。
アンドレが最もシンプルとは正反対であったのが毒ワインの時だろうと思う。要するにオスカルを殺して俺も死ぬ、という考えになったとき、アンドレあの男は、上着をバッチリはおり、このうえなく上等な格好をしてオスカルの部屋を訪れている(なおオスカル様は全く気にしない)。
このときの彼の考えは本当に傲慢でしかない。
だからこそ余計に、最後あのシンプルないでたちでオスカル様を迎えに来たのが本当に美しかったよね。その身一つで愛を分かち合うようなふたりがさ。
さてアンドレの話になりすぎてしまった、豊永さんだけれど。夜をこめて。私あの人のバカの出力はじめて聞いた。特にサビ。後半。
豊永さんの歌といえば、1曲の中での抑揚?ペース配分?力加減?がまあ~~細かくて、ギアチェンジ・ブレーキ・アクセル操作できる人って印象がものすご~くあるのだが(それなんて勝平太?突然capetaの話よそうぜ?)。
え、夜をこめてなに?ブレーキ壊れた?出力バカになっちゃってるじゃん…かっ飛ばすじゃん…なにこれ…すごくいいじゃん……確かにブレーキ壊れがちだもんなアンドレきみって…
アンドレが影みたいな人だから歌声もあまり前面には出てこないのだけど、よくたどってみるともう…すごい……さらけ出し過ぎですよ全く…ありがとうございます…ありがとうございます……豊永さんのバカの出力でたすかるいのちがここに……あ…る
なんだか湿度湿度と言われる豊永アンドレだが、若い頃は素直で朗らかでちょっと能天気でほんとうにかわいいひとだよね。
声もそうだけど、振る舞いも素直で朗らかで能天気。
平民と言いながら、身に余る環境で暮らすことができる。彼はおばあちゃんにたしなめられるほどには環境に甘えていたと思う。オスカルがアントワネットをめぐるフランスの状況を憂えていることを、軽く扱うほどには。
彼の受難はそのアンバランスな身の上に気付いてからなのだ。湿度の高さだけというよりも、カラっとした、あたたかな陽ざしの照らす昼間みたいな子どもだった、そこからの、深く、深く沈み込んでいくようなギャップのすごい人だったな。
Ravineは豊永さん曰く「がけっぷち」とのことだが、どちらかというと、その崖を作り上げてきた時間のことの方をおもう。
いやまったく、役者を語ることは作品の感想とは違うと思っているのだけれど。この作品はこのキャストの歩んできた道まで含めてエモいんじゃという気持ちが止まらなくて止まらなくて。これだけ長ったらしく書くくらいには劇場版ベルサイユのばら主要4キャスト、よかった。
もうよかったしか言えない。よかった以外に言葉にしようとするとその1000倍書いてしまう。
ベルばらの何も知らず、本当の偶然で観に行っただけの人でしたが、いまこの作品に出合えてよかった。長い間作ってくれていたと言うよりは、もしかすると世に出ない可能性だってあったのかもしれない。だけど出会えた。公開してくれて、本当にうれしい。
この記事をここまで読んでくれて、まだ劇場版ベルサイユのばらを見てない方がもしいたなら、もう乗り掛かっていますよ、強制です、ぜひ見てくださいね!
君が音楽をこんなにも愛していたこと、わかっていたよ。
彼は「歌うこと」で、「夢」の中できっとずっとまだ生きているはずの、「現実」に持ってこられなかった自分を、その後悔も、認めて、愛していこうと決めたのだろう。 なくしたものも愛するために、これからも「歌」を歌っていくのだろう、きっと。
「空色のラブソング」 - lost my past
こうやって声にして音に乗せてこれは愛だと大きく歌ってくれたことが、とても嬉しい。
あの頃の僕らはシリーズ。ノスタルジックを堂々歌いきって、今、決意さえ分かち合って、またここから飛び出してくれるのか、SOARA。
夢でも幻でも空想でもない、この現実で、みんなと。私たちと!
過去に対して、後悔の気持ちだけを抱いているのではない。ずっとずっと確かにある愛と感謝を、大好きな仲間と一緒に紡いでいくのだ。 それはきっとみんなにも届くと、確信をもって。
2023年、大原空とSOARAと - lost my past
SOARAの曲は、応援歌などではない、鎮魂歌であると、常々…壁打ちXでひとりボソボソと…言ってきた。 あのとき傷ついた僕、傷つけてしまった僕。 あのとき傷ついた音楽、傷付けてしまった音楽へ。 歌を歌うことで彼が成したいこと。 わたしはそれを空色のラブソングでもずっと考えていた。 けれどそれは、プロアニ2のLETITBEをひとつのピークに、あの頃の僕らはシリーズへと向かう流れの中で、また様子を変えてきていたのだな。 僕に、音楽に、みんなに。送りたいのは、愛と感謝だと。
2023年、大原空とSOARAと - lost my past
空くんがLET IT BEをSOARAでやることを決め、まるでそれに報いるように開催された地元川越でのライブ。あのときLET IT BEというマクガフィンはひとつの完成をみたのだと思った。 それと同じように、I Willはきっと今、完成されるのだろう。
SOARAへの妄想とこじつけの産物 - lost my past
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しかしな、あ~~~~り~~~~~~は~~~~~ら~~~~~~~~…、きみ自我出したらSOARAの歌こんな風になるんか……
そして在原アイツは、本当に一途でとてつもなく頑固なやつだな。 もっと本当の俺を見てほしいだなんて、わがままにもほどがある、そんなのかわいすぎるだろ。 はあ~~~~、モリにこんなに「もっとできるよ!」ってされたら、次のSOARA曲、どうなっちゃうわけ?! まったく、もう、ほんとに、SOARAってば……そう…”I will.”ね……、そんなん整っちゃうな……ソ活ってか……やかましいわ
葉の夢ノートと1ヶ月 - lost my past
個人的に、全員で歌うようになってからの曲、守人くんの歌声聞こえなくなってしまうときがあって。あまりにも優しすぎて。コーラス要員なのかなって感じることさえあって。
でも、きっと守人くんには不満がない。下支えのこの役割は、したくてやっているのだと思うようにしていた。
SOARAにおける、それぞれの「役割」。自分で思い込んだもの。
空くんと、空くんを巡る守人くんの視点からばかりSOARAを眺めていたものだから、思い至ることができなかったのだけれど。守人くんだけじゃなかったのだ。
5人が5人とも、そうだったのだ。
これまでずっと、みんなそれぞれがんばって「SOARA」になろうとしていたところが、まだまだあったのかもしれない。
だけど今はもう、飾らないありのままで、しかもちょっとくらいわがままを言っても、遠慮なんかしなくても、5人はSOARAなのだ。
ツインボーカルだったはじまりの花咲く丘で。そして5人で歌った花咲く丘で~again~。それからのこのIWill.、ぼくらのうた。なぜか今余計に「ツインボーカル」を感じている。
ぼくらのうたは、真ん中からだけじゃなく右からも左からも空くん、守人くんの歌声が聞こえてくるところかなと思うのだけど、IWill.はなんでなのだろう!
もう全然音楽に明るくなくて、言葉にして表せないのが情けないな。
でも、いいのだ。それでもいい曲なのがわかる、それがSOARAなのだよねえ。
ツインボーカルっぽいというのは、守人くんからしたら、やっぱり「メインボーカルは空」っぽいのかもしれないなと思ったりしている。
きっと今、空くんは、自覚と自負も含めて「SOARAのメインボーカル」なんだなあ。
決意こそが「ぼくら」なの、本当に最高だな。
IWill.のラストフレーズ、本当にうつくしいよね。空色のラブソングではじめて出会ってからこれまで触れてきた、私の認識してきたSOARAそのものみたいな言葉だなあと思った。ずっとずっと見せてきてくれた姿だ。
ぼくらのうたも、いつも君を歌うよ、今日も君を歌うよって、すてきな言葉だなあ。I love youを言ってくれたのも、すごく嬉しかったな。
おじいちゃんになるまでって歌ってきてくれたSOARAだから、「何十年経っても」「何十回でも」「これからもずっと」「いつまでもずっと」に嘘がないって信じられるのだよね。
てらいなくこの言葉たちを届けてくれるSOARAの今が貴くて、これが未来への希望ってものなのだなあと思う。今を歌えば未来になるなんて、誰が気付いたの?空くんか…天才すぎるな。
高校生のときのラブソングはあんなに切り貼りみたいだったのに、音楽への愛を歌えばラブソングができあがるだなんて、誰が気付いたの?空くんか…天才すぎるな。
きっと今ここが“君が未来を歩くとき” - lost my past
あの頃の僕らはシリーズって言われて、そのまま歌詞に入れられちゃう空くんって本当にすごいのだよね。あなたごく自然にふっとお出しできるのかもしれないけれど。簡単なことじゃないと思う。
そういう驚きと地続きみたいに捉えて見逃しそうになったりするのだけれど。「座り込んで泣きじゃくって誰にも見せなかった僕」。空くん、よく言葉にしてくれたなあ。
もう今が背中を押してくれるから、みんなといるから、愛だって歌えるまでになった。
それでも、痛みがあったことを人に伝えるのって、とても勇気のいることだったと思う。
歌にしてくれてありがとう。言えなかった、伝えられなかった、守れなかった…、そういう後悔とか、罪悪感とかを常に内包しながら前を向こうとするのが、私の捉えた大原空と、SOARAの音楽だった。
けれど、この認識はこれからまた、変わっていくのかもしれない。
君が、みんなと、踏み出してくれたからだよ。
全てを持ったまま未来へ行くことが、過去に対する贈り物みたいになりますように。今を生きることの祝福を、いつまでも。この手で作り出したもので、みんなと。新しい一歩を、踏み出せるようにと。 そういう決意に見えて、気高く、うつくしいなと思うのだ。
出会って半年の大原空へ - lost my past
ところでIWill.のハモり、合唱みたいだなって。
SOARAの歌は鎮魂歌だ~とか言っていたから、そういう響きのようにも感じたりしたけれど、それよりも私はなんだか卒業式みたいだなと思って。
卒業式の、校歌合唱みたい。
……
と、ここまでノリノリで書いたのだけれど、校歌ってやっぱり斉唱なのかな普通。
母校合唱だったから、そのイメージが浮かんだのだけれど。
一生懸命普遍的になるように書いたつもりだったのに、突然普遍性が脅かされてしまった…、とか言いつつ、このイメージを書かなきゃ気が済まなかったのですが…
…………
……
ともかく、ええっと。
合唱コンクールでも歌えちゃいそうだなって。Iwill.が斉唱みたいで、IWill.は合唱みたい。
やっぱり「学校」のイメージのある曲だなあ。
それから、ぼくらのうた、環境によるのだけれど、アウトロで音が近寄ってくるみたいなときがあって好きだなあ、また何度でもはじまるって感じがする 。
ああ、うつくしくて、そしてとにかく嬉しい、嬉しいなあ。空くんが、SOARAが、ずっと変わらず音楽を愛していること。これまでのどんな時間にも感謝の思いでいること。それを、音楽で表してくれること。
SOARAが音楽への愛を音楽で表せば表すほど、私は勇気をもらっている。
空くんの、SOARAの愛しているもののひとつに音楽があるように、私にも愛している世界がある。
それを愛していると言えるように、過去と、自分の力量と、気持ちと、自分で自分にかけた思い込みと、許しとを、見つめなおすことができたのはSOARAと、空くんと出会ったからだ。
愛する世界の美しさに、何度でも出会える。
なにもかもが分からなくて、自分には何もできないような気持ちになったとしても。
何度でも思い出す。この世界が美しいから私はここに居るのだと。
この愛のためにまた私は生きていく。だって証明してやらなくちゃいけないから、こんなにも愛して、感謝しているってことを。
そうだよね、SOARA!
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