lost my past

goodbye my past truth

葉の夢ノートと1ヶ月

守人くんが書いた可能性、か…

 
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視聴サイズを聞いたとき、完全に空くんが書いたと思い込もうとしていた。
だって空くん、「誰より無邪気だけど本当は悩みがちで浮かない顔かくして先頭を駆けてった」とか書けるじゃないですか。
「僕がついてるよ」も全然余裕顔でお出しすることができるんじゃないかと、そう思い込めるだけの材料はあると思った。
 
空くんから見えている守人くん像とは、やはりゆららから受ける印象そのままなのだろうと感じている。特に、一音一音を丁寧に扱ってあげたい・丁寧に扱って欲しい、という、願望みたいなところがあると感じている。音楽に優しくしてくれて、丁寧に音楽に接してくれるモリのことが、大好きなのだなと。
視聴サイズを聞いたとき、それは葉の夢ノートでも踏襲されているのだと感じた。
 
PVを最初見たとき、空くんに書いてもらった大切な詞を、守人くんが写しているのだと思った。
それは、少なくともペンで文字を書いているのは守人くんだと思っていたということだったのに、優しい音につられて、よく考えないままでいた。
 
そうこうしているうちに発売され、葉の夢ノートの2番を聞いたとき、これまでにない衝撃を感じた。
メロディに対して、言葉が混んでいたからだ。
それは、ほんの少しだけのことだったのに、とても衝撃だった。これまで、特にソロ曲に関しては、一音に対して忙しくするのは宗司くんの役割だった印象が、かなり強い。空くんは宗司くんに対して、割と何をやってもいいと思っているというか、無茶苦茶をやらせたほうが本気出すし燃えるし、それが悦びだってわかってるから、ぶん回してやっている。ところが守人くんには、丁重な箱に入れているというか、ちょっと守人くんへの理想が高いというか、夢見ているというか。空くんと守人くんの関係は、互いにいつもそういうところがある。だから宗司くんみたいな存在が余計鎹になるのだろう…とこれは脱線なのでそれ置いておくとしても…だから、これはちょっとめずらしいことだな、と感じた。
 
そうしてまたPVを見に戻ったら、なんということだろう、見えるものがまるで違うではないか。
 
もう、守人くんが歌詞を書いた以外に感じられなくなってきた。
これをもし、守人くん自身が歌詞を書いていたとしたら、この「モリと音楽」のイメージから逸脱した「めずらしいこと」を、「在原本人が」「敢えて」やった、ということになる。
幼い自分を映していて今の僕には描き足せない空色のラブソングに対して、君は葉の夢ノートに書き加えていくのか。
これは、もしかすると、空色のラブソングにおける空くんの告白よりも、何倍もでかいのではないか?
 
ところで、新規空くん担の私、個人的には、スカドリも空色のラブソングも物足りないのである。
それは、まだ、空くんが過去の時間と、その自分を愛しきれていないと感じる部分があるからだ。
どちらの曲も決意の曲だけれど、まだ、ほんとうのところでジャンプしきれていないのは、誰よりも空くんだ。
もっと信じていてほしい。あの日の君がここにいなくても、今の空くんがいるだけで、歌うだけで、奏でるだけで、奇跡がおきるみたいな、溌溂としたうつくしさを発揮できるのだということを。
スカドリは、あまりにも音に依っている。声を信じ切ってくれていないと思った。空色のラブソングも、まだまだその雰囲気が拭いきれていないだろう。
 
そういうモヤモヤを、葉の夢ノートは晴らしてくれる。
こんなにも近くで、こんなにもとてつもない愛を、言葉や態度で表してくれるひとがいるだけでもう、空くんって素晴らしいんだけどな。もっと自覚してください。
 
ねえ。全く。モテないってなにがやねん。だれも言わんだけやそれ!先陣切って伝えてる在原ってやつがデカすぎて誰も言わんだけやそれ!それをよしとしてる神楽坂お前も同罪やぞ!誰とでも壁を持たず接することができる空くんを好きにならないわけないだろうが。ミーハーな「モテ」とかいう概念と真逆にいるだけやそれ。あとちょっと騒がしいから誰も言わんだけや。
自覚しろ!…しないところが彼のチャームだろう!なんやねんほんま
 
そして在原アイツは、本当に一途でとてつもなく頑固なやつだな。
もっと本当の俺を見てほしいだなんて、わがままにもほどがある、そんなのかわいすぎるだろ。
はあ~~~~、モリにこんなに「もっとできるよ!」ってされたら、次のSOARA曲、どうなっちゃうわけ?!
まったく、もう、ほんとに、SOARAってば……そう…”I will.”ね……、そんなん整っちゃうな……ソ活ってか……やかましいわ
 
最後に先生からひとつ、在原くんは「anokoro_mori_demo」に大原くんの仮歌が入ってるかどうかを教えなさい。先生言わないから。先生言わないから!

今 敏「パーフェクトブルー」

パーフェクトブルーの劇場上映会に行ってきた。
パーフェクトブルーを劇場で見るのは初めてだ。でもディスクで何度も見てきた作品だから、25周年というお祝い事に参加するくらいの感覚で、足を運んだのだった。
しかし作品とは、出会って、それから幾度とめぐり合っても、決して同じ顔を見せないものだなと、今回も痛感するのであった。
 
パーフェクトブルーは、現実と虚構の境を曖昧にさせていくことで、物語に没頭させる。しかしその「現実」は、「物語上の現実」のことであって、私たちの生きる「現実」ではない。登場人物からみた現実と、虚構。それは、登場人物の数だけ存在し得て、物語が進むほどに絡み合い、渦を巻いて混沌を生んでいく。圧倒される作品観のひとつだ。
 
ところで、映画館というのは、虚構をいれた箱なのだろう。虚構への入り口のさかいめは人によって曖昧なれど、その出口の最終的なさかいめは明確に存在する。それは、あの暗い箱の中から出、街の明かりを目にする瞬間であろう。
しかし、今監督はそのさかいめに到達する前に、早々と現実を手渡してくる。事件の解決は、それまでの怒涛の展開を忘れたようにあっけない。そして、それまで信じていた「現実と虚構」は、「虚構の中の現実と虚構」だったことに気づかされる。そう、現実と虚構が入り乱れるなんて、もとからなかった。混沌もすべて、虚構。むしろ、あっけないほどの終末の瞬間にこそ、私たちの現実と、映画という虚構のさかいめが、混じりあい始める。ふれることのできないはずの映画が、これがお終いになったら、その手にある現実にふれなさいと、そっと語り掛けて、振り向いたときにはもう居ない。そんな、残り香みたいなやさしさを残していく。
このやさしさが、もう二度と変わることがなくて、ただ時間だけ確実に過ぎていってしまうのが、仕方ないことなのに、ほんとうにさみしいことだなって、何年経っていても思った。
テレビの前ではなく、劇場で置いてけぼりにされるのは、とてもかなしくなったけれど、私にとって特別な時間になった。
 
自分と同じくらいの年齢のひとばっかりなのかと思っていたら、若い世代の方々でいっぱいだった。なんか思ったよりフツウ!といった感想も聞こえてきたけれど、それはそうだろう、1997年だぞ、といった感じだ。
そんな風に言われても、それでも、25年前の作品のリバイバル上映に足を運ぶのが新しい世代だというのは、ほんとうにうれしいことだな。
同じ時間、同じ場所で、パーフェクトブルーにのめり込んだみなさんの、これからの映画人生が最高でありますように。

2023年、大原空とSOARAと

2023年。大原空にはまってから、もうずっと大原空とSOARAをこねくり回している。
これまでにない熱量で、一心にこねくり回している。
ソロ曲から始まったこの大原陶芸、曲のみならず、ドラマCD、アニメ、声優ライブ、劇場版、イブステ…などなど…を、周回しながらこねくり回す始末。飽きない。
飽きないどころか、どれをとっても「大原~……(仰天)」の状態である。大変奥の深いことです。はやく成形して焼きたい。
 
「空色のラブソング」記事では大原空のミリしらを書いたが、今でもおおよそイメージは変わっていない。
あのときはトトロをたとえに出したけれど、いやピーターパンかもしれないとか、やっぱ不思議の国のアリスかとか考えては、ピーターパンも不思議の国のアリスもわかんないな、ってところで終わっている。教養の無さが嫌になる。トトロさえ適当に言ってるからな。
大原空のことを考えるとき、教養もそうだし、音楽のことも、もっと知っていたらなと思う。これから出来るところから勉強していけたらいい。
 
そんな中、また気分が盛り上がる新しいいい粘土が手に入った。
 
在原守人の「葉の夢ノート(視聴サイズ)」っていうんですけど。
 
 
 
大原空は、かつて音楽そのものだったのだと、これまでの楽曲を通して感じている。
葉の夢ノート視聴版を聞いて、今まで思いついていなかったことを…思いついていたけれど、なんでかすっかり考えることを忘れていたことを…ふと考えた。
あの頃モリが空に届けた「大丈夫」「ひとりじゃない」「僕がついているよ」などの言葉と思いは、大原空にとって、「自分が励まされた友達からの言葉」としてのみでなく、「大好きな音楽にかけてくれた言葉」としても認識されて、大切にされているのだな、ということだ。
彼はもしや、「僕に優しくしてくれてありがとう」、そういう気持ちよりももっと、「僕の大好きな音楽に優しくしてくれてありがとう」そういう感覚の方が大きいのではないか。
 
 
SOARAの曲は、応援歌などではない、鎮魂歌であると、常々…壁打ちXでひとりボソボソと…言ってきた。
あのとき傷ついた僕、傷つけてしまった僕。
あのとき傷ついた音楽、傷付けてしまった音楽へ。
歌を歌うことで彼が成したいこと。
わたしはそれを空色のラブソングでもずっと考えていた。
けれどそれは、プロアニ2のLETITBEをひとつのピークに、あの頃の僕らはシリーズへと向かう流れの中で、また様子を変えてきていたのだな。
 
僕に、音楽に、みんなに。送りたいのは、愛と感謝だと。
 
 
 
ビートルズのLETITBEは、自分の過去が肯定してくれる未来、を歌ったものではない、…と、思っている。
それは、後の人間だから感じるだけなのかもしれない。
でも、そういうことを、その事柄の中心である仲間と一緒に作り上げる心境とは、いったいどういうものなのだろう、と考えたことがある。
作詞者個人の、パーソナルでセンシティブな事柄の織り込まれた言葉を、鑑賞するだけのわたしたちは、いとも簡単に飲み込んでしまうことができる。けれど、それを受け止めた上で、また違う誰かに発出しなければいけないメンバーは、その心にどんなドラマを秘めているのだろうと。
どんなバンドの歌に触れても、ずっと考えていたことだ。これは、しっかりと、SOARAにも共通して感じていた。
「色んなものがW.I.P.なままシーズンエンドを迎えてしまう」「教科書を広げてもわからなかった現象に理由をさがしてぼんやりしてたけど」……、キャラソンじゃあるまいし(!)、これを空くんから受け取った当人たちの気持ちとは?どういう整理で歌っているわけ?
マクガフィンの歌詞なんか受け取った日には、げろ吐いて泣くけど…?
少なくとも、少しだけ過去を否定しなければ、この歌詞に向かうことはできないのではないか。
そう思っていた。だから、これまでのSOARAの曲に、鎮魂を感じてきたのだろう。
踏み出す勇気をくれた「大丈夫」。この言葉を、何度も無邪気に出してくる空くん。その歌詞をどんな感覚で、思いで受け取って、SOARAは届けてきたのだろうか。
考えてはいつも、迷宮入りした気分になっていた。
しかし、葉の夢ノートはどうだろうか。
 
 
 
 
 
 
バンドというのは、仲間がいるからこそできることなのだ。
 
 
シンプルに、そういうことなのだろうと思った。
みんなが、仲間がいるから、大丈夫。これは、常々SOARAが届けてくれていたことだ。
それでも、やはりこのセンシティブな心模様を、どのようにして…という疑問がずっと残っていたのだが。
仲間がいるから、言葉にして、音に乗せて、まっすぐに表現することができる。ただただ、そういうことなのだろう。
 
 
そうか。だからSOARAの曲は応援歌として聞かれてきたのだな。
そしてこうしていま、ラブソングへと結実していく。
 
過去に対して、後悔の気持ちだけを抱いているのではない。ずっとずっと確かにある愛と感謝を、大好きな仲間と一緒に紡いでいくのだ。
それはきっとみんなにも届くと、確信をもって。
 
SOARAが生きていること。
それはなんて心強いことなのだろう。
 
 
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さて、葉の夢ノートだが、発売まで頑なにサビを隠匿されている。
どうなっちゃうんだろうね?29日、とっても楽しみだねえ、強くなったSOARA
いい年末だなあ。みなさん、葉の夢ノートとともに、よいお年を!

出会って半年の大原空へ

gbmpt.hatenablog.com

 

 

あの日からこっち、毎日大原空ろくろを回し続けている。

 

大原空と出会って初めての空くんの誕生日。

まだなにも君のことを知らないけれど、また新しい1年で、新しい君を見てみたい。

半年間の思いを込めて。

 

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太極伝奇の、舞台裏、の感想と、いつもの反省

ALIVESTAGE Episode8『太極伝奇の、舞台裏』、今回、初イブステしてきました。
まさか、2.5舞台まで見に行くとは。というか、右も左もよくわからん独自設定多すぎなツキプロにハマって半年でここまで来られるもんなんだな、という実感をしつつ。
太極伝奇ってなにー?!の状態でしたが、日常と劇中劇が混在していて、実際よくわからなくても入りやすいという親切設計。
中華風でインドって何?ツキプロこわい!と思いましたが、それもキャラクターが代弁していってくれる初心者にやさしいスタイル。
なにも建っていない時さえある、ひろいひろい舞台上。ステージ上のみならず、あらゆる場所を縦横無尽に駆け回り、一斉に踊り出す。振り付けは決まっているけれども、正確な群舞とはまた違った趣きで、どちらかというと自由奔放。それもそのはず、人族と獄族、みんなで「祭」に参加すれば「こう」で当たり前なのです!
設定がわからなくても、関係ないのです!
華やかで、うつくしくて、たのしくて、とってもワクワクする。チャレンジしていくことは、絶対に絶対にたのしいことなんだよって、手のとれる距離でみせてくれる。ストーリーが語る以上に、そうやって姿勢で表してくれる、そんな作品でした!
なんだかチカチカと、あっという間に過ぎてしまって、夢を見ていたみたいでした。
原作をしっかり好きな2.5次元舞台を見るの、たぶん人生で初めてじゃないかな?すごくフワフワした気持ちになりました。
 
 
しかしこの作品本当に、境界線がなかったんだよな。
作品と観劇者、演者と観劇者、ステージと客席、などいろいろな場面で存在する境界線がジワジワと移動しつづけて、気が付いたときには私たち(観客)も内側に居た、そんな印象。
しかもまたそれをシームレスにやってみせるんだ。
客席を使用する場面でも、「役者さんが客席に来た!わあ!」というミーハーな気持ちよりも、「そりゃ、ここまで使うでしょ」「あの席まで来て当たり前」といった納得感のほうが上回っていて。
とにかく、こちらの意識しないところで境界線を変えて変えて、いつの間にか私たちを内側に入れてしまったような感覚である。見事だったなあと、思い出してはしみじみ思っている。
これは、なかのZEROという会場の力も多分にあったと思うんです。
初めて行った会場でしたが、席や通路の間合いなど、独特の空間性を持っている感じがすごくいい。
これは新しい挑戦をせずにはいられないだろうな。いい会場だ!
ここでこの演目をやったということは、カンパニーのみなさまにとって、きっとおおきな力になるのではないかなと思いました。
 
 
だから、本当に、
 
客席ガラガラだったのが衝撃で。
といっても、ガラガラじゃないんですけど。
ガラガラとか感じたって、800人くらいはしっかり入ってるんでしょ?それってサンシャイン劇場くらいってことでしょ?ちゃんとどころかしっかり客入ってるでしょ?
でもガラガラ!に、見えてしまった。
千秋楽特別公演を考えたらこうなるしかないとは思うのだけど、これはかなりジレンマなのではないかな。なんでなんで?って思った。
すごく明るくて楽しくて満ち足りた気持ちなのに、ステージから見える景色ほんとうにこれでいいのか!?って不安な気持ちになった。
このちぐはぐな気持ちはこの界隈独特のものなのかな?
 
 
 
……っていうのは自分を受け手だと勘違いした、都合のいい言い方なんだよなーーーーー!
生きてる舞台に対して、観客である自分はそれを享受するだけと思い込みすぎっていう。
それこのブログで何回後悔するの?ブログなんて自分のオタ活の氷山の一角みたいなもので、この何倍も受け身の自分に後悔してきたくせに。何度も繰り返す自分バカすぎていやになっちゃうよな!
だから次は、……次っていうのも本当は甘えだけど、今回は次があるから……次は、一回でもいいから誰か友だち連れて行くんだって、つよく思ったね。
 
 
まあ次、ヒューリックなんですけどね!!
 
取れるのか?!わからんこの界隈。
 
 
ブクガ中止で行けなかったぶりのなかのZERO、取れたらブクガぶりのヒューリックだなー!
よっしゃ。がんばって、わたし。

Japan 2023.05.30 -730

2023年2月18日に、SH4F、6F、SolitudeHOTELのライブ映像がYouTubeにアップされたのはびっくりしたなあ。

他のいくつかは動画がなくなってしまっていたけれど、ブクガがライブで表した最もピュアなものの一部を見せてくれるのは、優しいなあと思った。

スキップできない30秒CMの入る未来を憎むほどには、YouTube公開は優しかった。

もういないのに、記録するものが少しづつ増えていて不思議な気分。

いろいろなものを吸い込んでいるように見えるから、それを丁寧に混ぜて、煮て、冷やしたら、何か取り出せたりしないのかなって思うときがあるのだけれど。

お前は何を大事にしたいの?って改めて自問すると、なくしたものも、自分が瞬間に感じたことなら全部、たとえ未来の私がそれを忘れたり誤認したりしていても、ただ大事にしたいって、そう思いなおしたりしている。

いま、私にとってMaisonbookgirlは、そういうことのランドマークだ。

「空色のラブソング」

 

大原空を知っているだろうか。

 

そのとき私は、VAZZROCK THE ANIMATION(通称バズアニ)を見ていた。

ツキプロのことは全然わからないのだが、吉良凰香(CV小林祐介さん)の歌声があまりにも良すぎるから、何なら事前番組のばずたびから見ていた。

どうやらこの枠は、ムービックの中でもツキプロ関係のCMばかりを流してくれるらしかった。

そうして毎週聞かされたCMがこれだ。

ツキプロのALIVEシリーズ、SOARAの大原空(CV豊永利行さん)による、「空色のラブソング」。

 

 

…いま豊永利行にこういう歌歌わせるコンテンツあるんだな。

これが、まず抱いた感想である。

でもツキプロって長寿なはずだし、豊永利行さんに、高めのお声のどストレート若者ラブソングで勝負させるなんてことも、全然有り得るか。

などと勝手な納得をしながら、

とにかく、なんか手持ちの豊永利行さんレパートリーでは珍しい曲だから、買っちゃえ。

というお手軽1-clickをしたのであった。

そして幾日かは、歌声と曲調をメインにして、「珍しくて、懐かしいようで、どこか悲しく、でも明るくて、楽しい」という気持ちで聞いていた。

よく歌詞を聞くまでは。

 

 

 

あれ??これ若者ラブソングじゃないな?????

どういうことだツキプロ?なんだこの子?

言葉を追えば追うほど、全然ラブソングじゃないが?

どういうことだ?なんだこの子?

 

 

大原空を知っているだろうか。-2-

私は知らない。

しかし、「空色のラブソング」を知っている。

「空色のラブソング」だけを知っている。

そしてこの曲から見える大原空像は、こうだ。

 

おそらく彼は、いちど、「才能」をなくしている。

あの頃の力のことを、たとえば「トトロ」の存在みたいに感じているのだろう。

日常が、夢と現実の境目なんかない世界だっただろう。

そして、夢と現実に境目を引いたのは、「才能」をなくした自分自身なのだろう。

あの頃の「才能」に、憧憬を抱いてはいるけれど、あれは「夢」と地続きにある力であって、「現実」の先にある力ではないということにも気付いている。

今はきっと、現実で手にしたものも大切で、夢の中だけの青かった才能に盲目になって生きるつもりは無さそうだ。

彼は「歌うこと」で、「夢」の中できっとずっとまだ生きているはずの、「現実」に持ってこられなかった自分を、その後悔も、認めて、愛していこうと決めたのだろう。

なくしたものも愛するために、これからも「歌」を歌っていくのだろう、きっと。

「空色のラブソング」は、そういう全ての決意のことなんだ。

 

 

 

大原空を知っているだろうか。-3-

私はまだ、大原空を知らない。

今まで書いてきたことはすべて、たった一曲から妄想したイメージだ。

だけどもうここまで来たら、本当の大原空を知るほかないのだ。

だって、共感してしまったのだから。

 

大原空を知っているだろうか。

 

「空色のラブソング」は、そういう全ての決意のことなんだね。

 

空色のラブソング

空色のラブソング

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