lost my past

goodbye my past truth

今 敏「パーフェクトブルー」

パーフェクトブルーの劇場上映会に行ってきた。
パーフェクトブルーを劇場で見るのは初めてだ。でもディスクで何度も見てきた作品だから、25周年というお祝い事に参加するくらいの感覚で、足を運んだのだった。
しかし作品とは、出会って、それから幾度とめぐり合っても、決して同じ顔を見せないものだなと、今回も痛感するのであった。
 
パーフェクトブルーは、現実と虚構の境を曖昧にさせていくことで、物語に没頭させる。しかしその「現実」は、「物語上の現実」のことであって、私たちの生きる「現実」ではない。登場人物からみた現実と、虚構。それは、登場人物の数だけ存在し得て、物語が進むほどに絡み合い、渦を巻いて混沌を生んでいく。圧倒される作品観のひとつだ。
 
ところで、映画館というのは、虚構をいれた箱なのだろう。虚構への入り口のさかいめは人によって曖昧なれど、その出口の最終的なさかいめは明確に存在する。それは、あの暗い箱の中から出、街の明かりを目にする瞬間であろう。
しかし、今監督はそのさかいめに到達する前に、早々と現実を手渡してくる。事件の解決は、それまでの怒涛の展開を忘れたようにあっけない。そして、それまで信じていた「現実と虚構」は、「虚構の中の現実と虚構」だったことに気づかされる。そう、現実と虚構が入り乱れるなんて、もとからなかった。混沌もすべて、虚構。むしろ、あっけないほどの終末の瞬間にこそ、私たちの現実と、映画という虚構のさかいめが、混じりあい始める。ふれることのできないはずの映画が、これがお終いになったら、その手にある現実にふれなさいと、そっと語り掛けて、振り向いたときにはもう居ない。そんな、残り香みたいなやさしさを残していく。
このやさしさが、もう二度と変わることがなくて、ただ時間だけ確実に過ぎていってしまうのが、仕方ないことなのに、ほんとうにさみしいことだなって、何年経っていても思った。
テレビの前ではなく、劇場で置いてけぼりにされるのは、とてもかなしくなったけれど、私にとって特別な時間になった。
 
自分と同じくらいの年齢のひとばっかりなのかと思っていたら、若い世代の方々でいっぱいだった。なんか思ったよりフツウ!といった感想も聞こえてきたけれど、それはそうだろう、1997年だぞ、といった感じだ。
そんな風に言われても、それでも、25年前の作品のリバイバル上映に足を運ぶのが新しい世代だというのは、ほんとうにうれしいことだな。
同じ時間、同じ場所で、パーフェクトブルーにのめり込んだみなさんの、これからの映画人生が最高でありますように。