パーフェクトブルーの劇場上映会に行ってきた。
しかし作品とは、出会って、それから幾度とめぐり合っても、 決して同じ顔を見せないものだなと、今回も痛感するのであった。
パーフェクトブルーは、 現実と虚構の境を曖昧にさせていくことで、物語に没頭させる。 しかしその「現実」は、「物語上の現実」のことであって、 私たちの生きる「現実」ではない。登場人物からみた現実と、 虚構。それは、登場人物の数だけ存在し得て、 物語が進むほどに絡み合い、渦を巻いて混沌を生んでいく。 圧倒される作品観のひとつだ。
ところで、映画館というのは、虚構をいれた箱なのだろう。 虚構への入り口のさかいめは人によって曖昧なれど、 その出口の最終的なさかいめは明確に存在する。それは、 あの暗い箱の中から出、街の明かりを目にする瞬間であろう。
しかし、今監督はそのさかいめに到達する前に、 早々と現実を手渡してくる。事件の解決は、 それまでの怒涛の展開を忘れたようにあっけない。そして、 それまで信じていた「現実と虚構」は、「虚構の中の現実と虚構」 だったことに気づかされる。そう、 現実と虚構が入り乱れるなんて、もとからなかった。 混沌もすべて、虚構。むしろ、 あっけないほどの終末の瞬間にこそ、私たちの現実と、 映画という虚構のさかいめが、混じりあい始める。 ふれることのできないはずの映画が、これがお終いになったら、 その手にある現実にふれなさいと、そっと語り掛けて、 振り向いたときにはもう居ない。そんな、 残り香みたいなやさしさを残していく。
このやさしさが、もう二度と変わることがなくて、 ただ時間だけ確実に過ぎていってしまうのが、 仕方ないことなのに、ほんとうにさみしいことだなって、 何年経っていても思った。
テレビの前ではなく、劇場で置いてけぼりにされるのは、 とてもかなしくなったけれど、私にとって特別な時間になった。
自分と同じくらいの年齢のひとばっかりなのかと思っていたら、 若い世代の方々でいっぱいだった。なんか思ったよりフツウ! といった感想も聞こえてきたけれど、それはそうだろう、 1997年だぞ、といった感じだ。