2023年。大原空にはまってから、 もうずっと大原空とSOARAをこねくり回している。
これまでにない熱量で、一心にこねくり回している。
ソロ曲から始まったこの大原陶芸、曲のみならず、ドラマCD、 アニメ、声優ライブ、劇場版、イブステ…などなど…を、 周回しながらこねくり回す始末。飽きない。
飽きないどころか、どれをとっても「大原~……(仰天)」 の状態である。大変奥の深いことです。はやく成形して焼きたい。
「空色のラブソング」記事では大原空のミリしらを書いたが、 今でもおおよそイメージは変わっていない。
あのときはトトロをたとえに出したけれど、 いやピーターパンかもしれないとか、 やっぱ不思議の国のアリスかとか考えては、 ピーターパンも不思議の国のアリスもわかんないな、 ってところで終わっている。教養の無さが嫌になる。 トトロさえ適当に言ってるからな。
大原空のことを考えるとき、教養もそうだし、音楽のことも、 もっと知っていたらなと思う。 これから出来るところから勉強していけたらいい。
そんな中、また気分が盛り上がる新しいいい粘土が手に入った。
在原守人の「葉の夢ノート(視聴サイズ)」っていうんですけど。
大原空は、かつて音楽そのものだったのだと、 これまでの楽曲を通して感じている。
葉の夢ノート視聴版を聞いて、あの頃モリが空に届けた「大丈夫」「ひとりじゃない」「 僕がついているよ」などの言葉と思いは、大原空にとって、「 自分が励まされた友達からの言葉」としてのみでなく、「 大好きな音楽にかけてくれた言葉」としても認識されて、 大切にされているのだな、ということだ。
彼はもしや、「僕に優しくしてくれてありがとう」、 そういう気持ちよりももっと、「 僕の大好きな音楽に優しくしてくれてありがとう」 そういう感覚の方が大きいのではないか。
SOARAの曲は、応援歌などではない、鎮魂歌であると、常々… 壁打ちXでひとりボソボソと…言ってきた。
あのとき傷ついた僕、傷つけてしまった僕。
あのとき傷ついた音楽、傷付けてしまった音楽へ。
歌を歌うことで彼が成したいこと。
わたしはそれを空色のラブソングでもずっと考えていた。
けれどそれは、プロアニ2のLETITBEをひとつのピークに、 あの頃の僕らはシリーズへと向かう流れの中で、 また様子を変えてきていたのだな。
僕に、音楽に、みんなに。送りたいのは、愛と感謝だと。
それは、 後の人間だから感じるだけなのかもしれない。
でも、そういうことを、 その事柄の中心である仲間と一緒に作り上げる心境とは、 いったいどういうものなのだろう、と考えたことがある。
作詞者個人の、 パーソナルでセンシティブな事柄の織り込まれた言葉を、 鑑賞するだけのわたしたちは、 いとも簡単に飲み込んでしまうことができる。けれど、 それを受け止めた上で、 また違う誰かに発出しなければいけないメンバーは、 その心にどんなドラマを秘めているのだろうと。
どんなバンドの歌に触れても、ずっと考えていたことだ。これは、 しっかりと、SOARAにも共通して感じていた。
「色んなものがW.I.P. なままシーズンエンドを迎えてしまう」「 教科書を広げてもわからなかった現象に理由をさがしてぼんやりし てたけど」……、キャラソンじゃあるまいし(!)、 これを空くんから受け取った当人たちの気持ちとは? どういう整理で歌っているわけ?
マクガフィンの歌詞なんか受け取った日には、 げろ吐いて泣くけど…?
少なくとも、少しだけ過去を否定しなければ、 この歌詞に向かうことはできないのではないか。
そう思っていた。だから、これまでのSOARAの曲に、 鎮魂を感じてきたのだろう。
考えてはいつも、迷宮入りした気分になっていた。
しかし、葉の夢ノートはどうだろうか。
バンドというのは、仲間がいるからこそできることなのだ。
シンプルに、そういうことなのだろうと思った。
みんなが、仲間がいるから、大丈夫。これは、 常々SOARAが届けてくれていたことだ。
それでも、やはりこのセンシティブな心模様を、どのようにして… という疑問がずっと残っていたのだが。
仲間がいるから、言葉にして、音に乗せて、 まっすぐに表現することができる。ただただ、 そういうことなのだろう。
そうか。だからSOARAの曲は応援歌として聞かれてきたのだな。
そしてこうしていま、ラブソングへと結実していく。